まさおのたわ言(2017年7月)
「運」
運は運也、運転する也。独断の人を去って、決断力のある人に来る。頑固の人を去って、自信のある人に来る。酒に溺れる人を去って、酒に狂わぬ人に来る。女に迷う人を去って、女に優しき人に来る。
屁理屈を言う人を去って、道理を理解する人に来る。あせり急ぐ人を去って、自分の目的・目標向かってひたすら前進する人に来る。心の動く人を去って、才智の動く人に来る。
やけっぱちになっている人を去って、道を求め、学んでいる熱中している人に来る。肩先の勇気の人を去って、腹底の勇気の人に来る。相手を見下げて軽んずる考えを持つ人を去って、置かれている自分の立場に立って忍耐を守る人に来る。欲の多き人を去って、欲の大きな人に来る。これすなわち「願」。
たやすく考える人を去って、熟慮する人に来る。飽きやすい人を去って、見切の善き人に来る。
小さな事を気にしてとらわれる人を去って、小事をおろそかにせずこつこつ励む人に来る。
人を恐れる人を去って、天を恐れる人に来る。人を怨む人を去って、人を愛する人に来る。
過去を思う人を去って、現在を思う人に来る。
現在を思う人を去って、未来を思う人に来る。
(大町桂月:作)の文章を少し変えて分かり易い様に変更しています。
どのくらいの「運」が結ぶか、おのれ自身にかかるものであり、天を拝むだけでは、あるいは「待っているだけ」「他力本願」では「運」はついて来ない。自らがつかみに行くものである。私はつかまれた頭頂の髪の毛は抜け落ち、老いをたしなんでいる。長い年月が経ってはげになる事、すなわちこれまでの年月で経験した知力がついた証なのかも?フランシスコ・ザビエル時代の宣教師はわざわざ頭の頂点をそり落としていた。考えると「老いた人」に追いつけとばかりの考えだったのか?
(園庭管理者 勝連正男)